マイク一本、一千万


ノンフィクション【M-1グランプリ2003】


「マイク一本、一千万」を読み終えた。筆者は漫才とはなんぞやと自問を繰り広げ、漫才のタイプを発想型と技術型に分けて考察していく。ここでいう発想型とは、いわゆる今までの漫才の型から外れて新しい発想で行われる漫才(変化球)を指し、技術型とは漫才の型にはまった漫才(直球)を指す。M-1で言うならば、笑い飯や千鳥が前者で、フットボールアワーや二丁拳銃、アメリカザリガニ、りあるキッズ辺りが後者となる。また最近の麒麟は後者になりつつあると思う。

新鮮だったのは「笑い待ち」という言葉だ。たとえば漫才の持ち時間が3分とするならば、3分みっちりのネタを作るのではなく、お客さんがが笑う数秒を考慮して作るのである。この「笑い待ち」を入れないと、客の笑い声とネタが被って、声が聞こえなく可能性が出てくるだろう。漫才とは何と奥の深い芸術なのであろう。

発想・技術、それに中田カウス師匠の言うところの鮮度というステータスもある。発想や技術というシステムの上に乗るネタが新鮮かどうかである。これらは漫才だけでなく、全ての芸術にいえる事である。最近では映画でもゲームでも、発想は? 技術は? 鮮度は? などと評価してしまう自分がいる。

そして今日も再びM-1 2003の録画ビデオを見返した。たとえば好きな曲を何回も聴く様に、あのネタをもう一度観たくなるのだ。名場面といえば2001年度の麒麟、2003年度の笑い飯などは何度でも観たくなる作品である。スピードワゴンの「(小沢さ〜ん)あたしゃ認めないよ」、フットボールアワーの「〜とお言い!」(SMタクシー)、おぎやはぎ口調などは連れあいとの間では、もはや日常語となっている。

Posted: 土 - 3月 6, 2004 at 02:31 午前          


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